小学生の頃の帰り道で、草原に寝転んでみた時があった。
その時の草の匂い
広すぎる青空
心地良い風を
たまにふと思い出すんだ。
その時の俺は、青く高い空を見上げながら、
「でっけぇなぁー。」ってつぶやいた。
ずっとずっと眺めていたいくらい、壮大過ぎた。
時は流れ、当時から20数年経った今を生きてる。
あの頃ほどの純粋な心は、今は持っていない。
可能性も、小さくなっていくばかり。
希望は小さくなっていく一方で、不安は大きくなる一方。
空を見上げても、視野に入る人工物が邪魔をする。
個人的にはどうでもいいことを、義務的にこなす毎日。
定期的に鳴るスマホのデジタル音。
無機質な文字の羅列。
嘘か本音か分からない言葉達。
疑似的仮想空間で、誰とでも繋がる環境。
希薄な人間関係。
自分すら見失ってしまうような情報量。
たまに気休め程度の何かがあるだけ。
そんな日々。
朝は「これが現実?まさかね。」って、願いながら目を覚ます。
こんな今を、望んだことなんてなかったから。
何一つ、望んだものを持てていないから。
大切なものを手に入れたと思ったら、いつの間にかなくなっていて。
また拾い集めようとするけど、またなくなっていく。
どんなに強い感情も、まるで他人事のようになくなっていく。
そんな繰り返しの日々。
失うばかりなら、初めからなくていい。
そう思ってしまう時もある。
幸せだった分、それを失った時の悲しみも大きくなるから。
だらけて怠けて、疲れないように楽なように生きていく。
生きていく為の最低限のことだけをしていく。
そんな日々を選んだ人達も、沢山いる。
俺もいつか、そうなってしまうのかな。
日々の積み重ねは、記憶をどんどん書き替えていく。
昔の記憶になればなる程、曖昧になっていく。
本当はどうだったのかも、分からなくなる。
思い出せなくなる。
誰も思い出せなくなったら、
誰の記憶にもないそれは、なかったことになるのかな。
もし今夜眠ってる間に、苦しまずに命が終わっても、
それはそれで良かったって思えるかもしれない。
俺1人が消えたところで、世界には99.9999%影響はない。
いてもいなくても、変わらない存在なんだ。
誰かと一緒にいても、いなくても。
代わりはいくらでもいるんだ。量産される車のように。
自分の日々に、諦観する時間が増え続けていく。
このままずっと、こんな日々が続いていくのかな。
今はもう、抵抗する気力もない。
周りからは気づかれない程度に自暴自棄になって、
好き放題遊びほうけるんだ。
それは現実逃避。運命に抗うことを諦めた証。
悲しくても涙を流せなくなった。
2015年11月16日。
幸せな日々が突然終わりを告げた運命の日から、
心のどこかが欠けて、心が少し壊れた。
あの日から、実は本当は何も変わってない。
表面上は、充実で満たされた日々を送ってるように見えても。
沢山の人達と関わって、囲まれていても。
いつでも一人ぼっちだと感じてしまうんだ。
そんなありふれた、絶望と諦観の日々。
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[…] 絶望と諦観の日々を過ごす。 […]