アオのハコを読んで、脳がグレードアップしてから、約4年半続けていたソシャゲをアンインストールした。
久しぶりに丸一日そのゲームをしなかっただけで、凄く爽快な気分。やっぱり邪魔なノイズは切り捨てた方が良い。
なぜ、長く続けていたソシャゲを切り捨てたのか、それは簡単に言うと、ちゃんと正しい努力をするために、もっと頑張りたいと思ったから。
アオのハコは運動部に所属している登場人物たちがメインなので、練習や試合の描写もある。
自分も学生時代、特に小学校高学年から中学生までは、サッカーと陸上に励んでいたので、当時の自分を思い返すキッカケにもなるし、今でも努力や成果については自分事。
やってることは違えど、本質的な面ではアオのハコの主要キャラクターたちを見習いたい。
今まで色んな物語を見てきて思ったのは、ひたむきな努力をしているキャラクターや展開に惹かれること。
なのでそういう物語や展開を作りたいのは自然だし、それ自体は難しくないと思う。
問題は、自分自身がひたむきな努力ができるか。
スポーツなら、筋トレなどのトレーニングや、練習や試合など、分かりやすい。
でも物語創作においては、スマホやPCをいじりながら進めることが多く、見た目からは分かりにくい。
実際に、物語を執筆してるのにゲームしてると勘違いされたことも多々ある。
それに、徒歩通勤中に頭の中で物語やキャラクターについて構想を練っていても、周りから見たらただ歩いてる人にしか見えない。
そのように、自分がしている創作活動は、周りから見たらひたむきな努力をしているようにはとても見えないだろう。
でもだからといって、ひたむきな努力をしていると認められる必要はない。
これはスポーツでも同じだけど、努力したから報われるとは限らないし、結果でしか評価されない。
つまり俺の場合は、創作物である物語や映像作品が、目的を達成しないと意味がないし、達成できれば意味がある、ということになる。
その肝心の目的とは、作品に触れた人の人生を、少しでもより良くしていくこと。
教養でも感動でも面白さでも何でも良いし、1秒でも良いから、自分が作った作品が誰かのためになれば嬉しい。
それが俺にとっての結果。
しかしここでもう一つ、また難しい難題が立ち上がる。
そもそもその「結果」、作品に触れた人がどう思ったのかは分からない。
例えば俺はドラマ版のウォーターボーイズ1・2を観たことで、その後の人生観が大きく変わった。
でもウォーターボーイズの制作に関わった人たちは、誰もそんなことは知らない。
つまり、そういうことだ。
そう考えると、創作活動はとても孤独だ。
認められず、価値があるのか、目的を達成できているのかも分からない中、進み続ける。
あるいは、企業からのオファーやファンからの声が届くこともあるだろう。
でも全てを把握できるはずもなく、恐らく、大人気作品になったところで総意の一部しか認識はできない。
でも、世の中そんなものかもしれないね。